香川県

橘池

香川県高松市国分寺町(旧 綾歌郡国分寺町)新名2067 にあるため池。国分寺町内では最大規模で県内でも33番目の大きさ。堤防からは町内が一望できる風光明美なため池である。

しかしため池の歴史については知られていない部分が多く、いつ、だれが、どれくらいのきぼで、作ったのか定かではない。灌漑用途で作られたのは間違いないだろうが。

気になるとやめられないタチなので、いろいろ調べてみることにした。といっても資料が乏しいし、関東に住む身、そうそう実地調査はできないので、地道に調査活動を展開して、5年くらいかけて全貌が明らかになればいいかなと思う。

contents

資料(文献調査)

./文献 に列挙した。

資料(実地調査)

橘池改修工事記念碑

橘池南東に大きな堤防が築かれており、そこに記念碑がある。 書き方はさておき、内容はよく調べて資料価値があると感じたので書いてみる。

表面は池の歴史について記述がある。以下、碑文をそのまんま記述。

この橘池は国分寺町の西南端、鷲の山の東南麓、火の山の北に位置します。

貯水量と灌漑面積においては国分寺町内のため池の中では一番であり、香川県下の14600余のため池の中でも三十三番目に数えられる大きな池であります。

歴史は古く、奈良時代(西暦七六〇年頃)にはすでに築造されていたようです。その位置は現在の位置よりもっと下流の野揺・金原・中新名地区に堤防を築き、浅くて広いため池だったようである。

ところがこの池は、浅い池でありながら、水面の面積が広い関係から揺る付近は何度修繕しても欠壊[堤防の一部が流出すること。筆者注]するので大変農民は困りました。寛永年間(一六二六年頃)の大旱魃(かんばつ)の年は一粒の米も取れなかったという。時の領主(生駒貴俊)は家臣(西嶋八兵衛)に命じて現在地に池を移した。

この地が「橘」と呼ばれていたことから、池の名を「橘池」と名付けたと伝えられている。

その後、一七九四年、一八三二年、一八五六年と大改修がなされた記録がある。

近年では、昭和三十年、昭和五十六年、五十八年に、平成六年には四国横断自動車道関連土地改良工事で改修された。

また、野球場・テニス場・体育館等の総合運動公園として、福祉の町にふさわしい老人福祉施設等の建設用地として、約一万五千立方メートルを提供し新しい街づくりに貢献してきた。

これからも町の人々をはじめ県民の憩いの場として、この素晴らしい水辺環境の活用がなお一層期待されています。

池の管理は、国の農業政策による、米作の減反と宅地等の転用による耕作面積の減少の中で、いかにあるべきかを真剣に考えなければならないときです。

ここに、平成の大改修を記念すると共に、これを機に橘池のことを後世に伝えるためにこの碑を建立する。

平成十三年三月吉日

橘池水利用組合

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堤防から北西方向を撮影。記念碑と、後方に見える鷲の山。

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記念碑表面(合成)。

裏面は工事の概要について記述がある。

橘池は南東にある巨大な堤防によって現在の形となっている。その堤防は近年改修工事があったらしく綺麗な石碑が残されている。基本情報はこの石碑から取った。

  • 堤の長さ:287.0m
  • 堤の高さ:10.2m
  • 面積:13.1 ha
  • 貯水量:556,000立法メートル
  • 灌漑面積:125.0ha (昭和28年)
    70.8ha(平成12年) 
  • などなど

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裏面(部分)。

お地蔵さん

全面に「三界萬霊」、側面に「明治三十一年」「發起人 松尾虎次」と記述がある。 池との関連性は見当たらない。

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石碑2

明治二十三年の石碑。漢文。裏面はゴツゴツした岩肌を残しており文字は刻まれていない。

察するに、戦争で台湾にいった青年がふ労働従事中に亡くなって、慰労金が支払われた。上官らには追悼の念もない、といったところか。文末には漢詩が詠まれていて、高貴な身分・学がある人のご子息が亡くなられたのかな。でっかい石碑を遺しているわけだしな。

橘池と鷲の山のことが詠まれているが、それ以上の関連性ー亡くなった人はこの堤防の改修工事に携わっていたとか、亡くなった人の家が水利権を握っていたとかーは不明。

表面は漢文で記述されている

タイトル:瀬尾笛(?)七君墓

君者瀬尾琴次郎之第三男而即第五師団歩兵第廿二連隊第二大隊第六中隊陸軍歩兵二等兵率也明治廿八年十二月一日編入第十二連隊第五中隊於丸亀営所●廿九年十月九日又編入歩兵第廿二連隊第六中隊●●●翌十日發丸亀●月十八日至●●[台湾か?筆者注]基隆港以来客衛不●書夜勤務不●日然彼地書問然炎熱夜間即寒冷其酷厳不類●国君也忠情不厭其寒熱不幸為時気侵發熱不止是全為勤務書夜辛労是所以也●年十一月十一日遂逝●壽廿二歳時官賞其勤労扶助金三十円特別金百五拾円●賜於父琴次郎君嗚呼惜哉隊長及諸将等無惜而不悼 無而不惜浮●曰徹忠院貫良銘曰

鷲嶺●[山偏に争]●[山偏に栄] 橘水●[三水に央]●[三水に央] 君ノ遺望 山高水長

明治二十三年四月吉

吉田免月誌

阿兄 瀬尾康●●

ケータイ辞書JLogos 「新名村(近世)」の項

URL(google cache)

江戸期〜明治23年の村名。阿野郡南のうち。新居郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」675石余,「貞享元年高辻帳」438石余,「天保郷帳」810石余,「旧高旧領」875石余。貢租は高松御蔵納,寛永19年高松藩小物成には綿180目とある。「讃岐国名勝図会」には阿野郡南の土産として切形石があげられている。切形石とは,墓石や灯籠・玉垣といった石材加工品のことと思われる。鷲山では軟質で加工しやすい良質の花崗閃緑岩・黒雲母花崗岩を産し,古代から古墳の石棺の石材産地でもあった。江戸期に築造された比較的大きな池として橘池(水利高 800石余)と石船池(同200石余)がある。橘池は満水しておけば心配ないとされるほどの大池であるが貯水には苦労が伴った。それはこの池独自の集水地域が少なかったためで,羽間【はざま】池から橘池まで用水路(掛井手)を約2kmにわたってつくった。このため福家村の庄屋との間で管理や修築は1年交代で当たることにした。石舟に滝宮を経由していく金毘羅道の一里塚があった。当村の庄屋は代々綾田家が勤め,延享年間与市太兵衛,享保〜文政年間喜代次,天保〜嘉永年間綾蔵,安政年間から明治期2代目綾蔵の名があげられている(国分寺町史)。明治維新前後に寺子屋が谷上宅(石舟寺)・上原宅で開かれた。明治 4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県,同21年三たび香川県に所属。明治8年の戸数256・人口 1,174,反別92町余(梶山家文書)。明治5年柏原・新名・福家の3か村が満善寺の教場を学校とした。同8年新名小学校を開設,同20年学区改正で新名簡易小学校となる。同23年山内村の大字となる。

調査すべき事項

  • 羽間池@綾南町 ... その昔、橘池に導水していたようだ(出展)。
  • 西嶋八兵衛 ... 江戸時代、生駒貴俊がこの池の改修を命じている。
  • 橘池水利用組合 ... 古地図など持っていそうだ。

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Last-modified: 2011-05-08 (日) 19:49:00 (4757d)